夏草の 瓦礫上りて 咲き誇る
浴室回りが基礎部分と一緒に残る光景に、
ここ相馬・松川浦の原釜・尾浜地区でも遭遇する。
冬の三陸地方で見た雪中のシュールさとは異にする
夏の草が生い茂っている中である。
物理的に放置された、撤去ならない理由はさておき、
この光景をどう解釈すればよいのか。
炎天下、無い頭が螺旋を描くようにぐるぐる回る。
私の中の心的な外傷が、いや増していく。
ふと、辺見庸の詩集『眼の海』に蒔かれた
言葉の断片が蜃気楼のように立ちのぼってくる。
「〜死者の唇ひとつひとつに
他とことなるそれだけしかないことばを吸わせよ
類化しない 統べない かれやかのじょだけのことばを
百年かけて 海とその影から掬え
砂いっぱいの死者はそれまでどうか眠りにおちるな
石いっぱいの死者はどれまでどうか語れ
夜ふけの浜辺にあおむいて
わたしの死者よ どうかひとりでうたえ
浜菊はまだ咲くな 畦唐菜はまだ悼むな〜」 (抄)
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