形骸化しているメディアの姿勢に抗い続けて、
時代の危機感に警鐘を鳴らし続ける作家、
辺見庸の著作を、このところ読み返している。
すべてが拡散し、現象はあるけど本質がなく、
その現象を疑うことができない。そんな
コーティングされた世の中と、そこに生きる
人間にある無意識の荒みを一貫して指摘し続ける。
世界と他者について、反復して思索して想いを深める。
こうした極めて人間的な行為を、辺見庸ほど
内在性をもって問いかけ続けている作家は少ない。
『しのびよる破局』〜生体の悲鳴が聞こえるか〜
から一節だけ引用しよう。(大月書店・2009年)
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(端末化する生体・思索の排除)
人間とはなにか。人間とはどうあるべきか。
これは本当にあくびがでるぐらいつまらない疑問かも
しれないけど、じつは自明ではない。
2009年になっても、昔より全然わかっていない
のではないかと思う。むしろ旧約聖書の時代のほうが、
人智というものの驕りとか、その驕りを戒めたりする
人間の内省の気持ち、自省の気持ちというもの、
哲学をいうものがあったのではないかと思うのです。
今はそれがない。少なくても決定的に欠けている。
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★故郷・宮城県石巻市南浜を大津波で根こそぎにされながら、
「絆」などの耳障りのいい言葉を排除してきた。
復興支援ソングの「花が咲く」や、手に手をとって
「上を向いて歩こう」を歌うことでない、と断じて言う。
人を救うのはうわべの優しさでない。悲劇の本質にみあう、
深みを持つ言葉。切れば血が出るような言葉。
胸に抱きしめて半日ぐらいじっとしていられるような言葉。
それさえあれば、人は苦しくても生きていける。
辺見庸は、そんな言葉を今も探し続け、紡いでいるのだ。
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