3.11東日本大震災から今日で40ヶ月。
身体にじっと纏わりついているものがあり、
あらためて、2冊の本を手にとっている。
『魂にふれる』〜大震災と生きている死者
(若松英輔・トランスビュー)
『41歳からの哲学』(池田昌子・新潮社)
人間は、いかに生を全うするかばかり見てきて、
死者を置き去りにしてきていないか。
亡くなった人たちの魂が伝えようとした遺言に
向き合わなければ、復興はないのではないか。
大震災の問題は解決しないのではないか。
–––––という、自問自答である。
2011年の漢字に選ばれるなど、あれほど流布された
「絆」だって、生きている者同士の連帯である。
『魂にふれる』–––––その帯にはこう書かれている。
「死者は私たちに寄り添い、常に私たちの魂を見つめて
いる。私たちが見失ったときでさえ、それを見つめ
続けている。悲しみは、死者が近づく合図なのだ。
–––––死者と協同し、共に今を生きるために。」
著者は、池田昌子から、井筒俊彦、小林秀雄、フランクル、
リルケ、柳田国男、西田幾太郎、神谷美恵子...らの著作を
ひもときながら論考を巡らしているが、とりわけ池田昌子の
死者論*を受け継いでいるような意思を行間に感じた。
*「死の床にある人、絶望の底にある人を救うことができるのは、
医療でもなくて、宗教でもなくて、言葉である。」
池田昌子(1960-2007)は、哲学用語を使わずに、
生きるとは、死ぬとはどういうことかを日常の言葉で考える
気鋭の女史だった。週刊新潮の人気コラムだった「人間自身」と
"対"のネーミング・タイトルで意表をついた2著作
『14歳からの哲学』『41歳からの哲学』が思い起こされて、
手元に残る『41歳からの哲学』(2004年刊)のページを繰る。
「気がついてみると、驚くべき当たり前のことなのだが、
この世に存在しているのは、すべて生きている人である。
(中略)したがって、死ぬとはどういうことなのか、
知りたくても聞ける人がいない。そして、生きている人は、
生きている人しか知らない。ゆえに、人は、生きている限り、
死ぬとはどういうことなのか、知る術がないのである。」
こんなに分かりやすくて腑に落ちる記述は、
14歳から41歳にいたるまで、いや、もっと年かさを増しても、
出合ったことがない。鈍い輩、今もってそうである。
こころがジリジリする暑い夏がはじまる。
_________________________________
*フェイスブックでも投稿しています
http://www.facebook.com/petekobayash
0 件のコメント:
コメントを投稿