近年、あらためて評価されている
桑原甲子雄(1913ー2007)の回顧展を見てきた。
「ごく私的な記念写真」と自らが語るごとく、
市井の人々の暮らしをメモするように、
またスケッチするように撮り歩いた写真は、
現在的な写真の源のように思える。
浅草にしても世田谷のボロ市にしても
カメラを構えてシャッターを切ったような写真は
ほとんどなく、町の感触と距離感が絶妙で
普通は目を向けないような部分が写真になっている。木村伊兵衛や土門拳の写真に比べると、
凝縮度が低いというか濃くない。つまり薄い。
カメラをしっかり構える一歩手前で、
スッと撮っているのだろうか。いまも新しく見える。
そして何より感じ入ったのは、
ほとんどの写真に人が写っているのだ。
あるいは写ってしまったもの。
桑原甲子雄の写真は、見えていなかったものを
あらためて見せられて、触発される。
そんな根源的な意味を感じた時間だった。
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