2013/03/13

鎮魂の町を歩く(vol.18-1) 3.11・歳月人を待たず

「歳月人を待たず」。一目で忘れない見出しのついた
ページに釘付けになった。三陸新報の3/10付紙面である。

3.11をはさんでの3日間、被災地で入手できた新聞を、
いつものように目を通したが、ほとんどが凡庸な、
ありていの見出しに終始している中で、三陸新報社(気仙沼市)の
さりげなくつけた見出しの秀逸さに、アタマが下がった。

「大胆にして、細心」という言葉を思い出したが、
さしずめ新聞の見出しでは、こういうことをいうのだろう。

そして、冒頭の部分には、こう書き添えられている。
「ーーー住み続けようとする人の努力とは裏腹に、
被災地の姿はこの1年、ほとんど変わっていない。」
なんという的確な記述と描写だろうか。

手垢にまみれた、消費された、あるいは浮ついた言葉とは
ベクトルを異にする、ピンと生きている言葉。
地元に密接したローカル新聞ならではの一心、と思う。

(*「歳月人を待たず」とは、ロートル人間の私には、
ピンと来過ぎるほど、ふだんから感じているものであるが
念のためネット内の辞書にあたってみるとーーー
「時間は人の都合とは関係なしに刻々と過ぎていくものであり、
人を待ってくれることなどない。転じて、人はすぐに
老いてしまうものだから、二度と戻らない時間を
むだにしないで、努力に励めよ」と丁寧に説かれている)

ちなみに英語では、Time and tide wait for no man.と言うが、
「tide」は潮、大津波の意味で、転じて大変動、大動揺をさすだけに、
3.11に因んだ言い回しとして、英語の方がピンとくる面もある。

さて、ひるがえって、自分は今まで何をしてきたか、
とりわけ「3.11」以来、平均月イチの頻度で
被災地に足を運んでいるが、いったい何をなしてきたのか、
もっぱら自省の念が、いま重く強くのしかかっている。

食い入るように見つめた紙面から一部を抜粋、気を紛らわす。





























(写真、下から2番目/左)
「『いとおしさ』を復興の礎に」 と題された
ブロック紙・河北新報の3/11付社説に、
故・茨木のり子さんの、いい詩が引かれていた。

<苦しみの日々 哀しみの日々 それはひとを少しは
深くするだろう わずか五ミリぐらいではあろうけど>

<受けとめることしかない 折々の小さな刺や
病でさえも はしゃぎや 浮かれのなかには
自己省察の要素は皆無なのだから>

なお、31万5千人を数える避難者をそよに、
国の被災者に対する「いとおしさ」が決定的に不足していることを
嘆くだけでなく、具体的な言葉を携えて提唱する姿勢。
中央ではない現地の新聞に、いつだって教えられる。
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