2012/08/03

鎮魂の町を歩く(vol.12)-3 相馬市松川浦3


夏草の 瓦礫上りて 咲き誇る

浴室回りが基礎部分と一緒に残る光景に、
ここ相馬・松川浦の原釜・尾浜地区でも遭遇する。

冬の三陸地方で見た雪中のシュールさとは異にする
夏の草が生い茂っている中である。
物理的に放置された、撤去ならない理由はさておき、
この光景をどう解釈すればよいのか。

炎天下、無い頭が螺旋を描くようにぐるぐる回る。

私の中の心的な外傷が、いや増していく。

ふと、辺見庸の詩集『眼の海』に蒔かれた
言葉の断片が蜃気楼のように立ちのぼってくる。

「〜死者の唇ひとつひとつに
他とことなるそれだけしかないことばを吸わせよ
類化しない 統べない かれやかのじょだけのことばを
百年かけて 海とその影から掬え
砂いっぱいの死者はそれまでどうか眠りにおちるな
石いっぱいの死者はどれまでどうか語れ
夜ふけの浜辺にあおむいて 
わたしの死者よ どうかひとりでうたえ
浜菊はまだ咲くな 畦唐菜はまだ悼むな〜」 (抄)

自己の内なる対話がまだできていない。
遠くないうちに、もう一度、この地に来なくてはならぬ。





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