2014/06/16

もしW杯を寺山修司が観たら...

W杯の過熱報道に晒され、ざわつく心を鎮めたくて、
ノンフィクション作家・沢木耕太郎が
サッカーを書いたものを探すのだが、どうにも出て来ない。

ワールドカップやサッカーとの距離の取り方が絶妙で、
2002年「日韓ワールドカップ」の取材から
ペンで見せた力量は並でなく、いまだ記憶の底にある。

過多の引っ越しで散逸し続ける本、自分を諫めるしかない。

あきらめかけて、読みさしの寺山修司の文庫本に
目を置いてみると、サッカーについてこんな一文があった。
ちょっと長いけれど抄録することにする。

「同じ蹴鞠(けまり)あそびでも、それをサッカーやフットボールとして
育てていったヨーロッパ人は、先ず、境界線を作ることからはじめた。
敵地と味方。―白い線でフレームを限定し、ルールを作っていくのは、
地つづきに他国を隣接している民族、交配によって繁栄してきた牧畜
民族の必然であったのだろう。なにしろ、ヨーロッパのボール遊びは、
ルールによって国家を形成し、その中で個(頭蓋の喩えとしてボールの
ような)運命をもてあそぶ、ところが、わが国の手毬つきなどは反復と
転生によって生きのびてきた農耕民族の作り出した家のまわりの遊び
である。はじめから境界という概念がなく、ただ繰り返す....。少し
遠くへ『邪魔な頭蓋骨を蹴り飛ばしてしまおう』というサッカーの
『愛国競技性』にくらべれば、手毬は悲しい遊びであることがわかる。
それはひたすら同じところにとどまって、何かを待ち続ける歴史の比
喩である」―青蛾館―寺山修司「両手いっぱいの言葉」(新潮文庫)より

そして、こんな言葉も遺している。

「性的時代にさしかかると男たちは、ピンポンのタマを捨てて野球へ、
野球のボールを捨ててサッカーへと、タマの大きな方へ移ってゆく。
ところでこの世で一番大きなタマは......? 地球である。」
―書を捨てよ、町へ出よう―  寺山修司(同)より

言葉と発想の錬金術師・寺山修司が、この世を去って31年。
日本がワールドカップに初出場する15年前の1983年に、
没している。いまの興隆を観たら、なんとつぶやくのだろうか。

お決まりのタレントから女子アナまでの総動員にうんざりして、
サッカー・メディアが繰り返す紋切り型の表現と
切り口から逃れるためにも、閉じずに開いておこうと思う。





















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