2019/01/17

1995.1.17.5'46"から24年@"初"首都圏での追悼

あの刻の8時間前まで、私は関西の地にいた。
1995年1月17日(火)5時46分、阪神・淡路大震災。
大阪・都島の友人宅を後にしたのは前夜だった。
竣工間もないレンゾ・ピアノ設計の「関空」見たさの
一心が通じてか、最終便のラスト一席が取れた。

翌朝の出勤前、TVに映る映像に我が目を疑った。

10日後の週末、JR芦屋からひしゃげた線路を横目に
国道43号をジグザクに西の方角へひたすら歩いた。
ダミ声を飛ばし会う同行の戦友とは一声も交わせず、
写真機のシャッターには触れも出来ず、だった。

10数km先の三ノ宮まで地べたを這いつくばって
歩んだ記憶しかない。全壊・半壊した家屋に
かけられた夥しいブルーシートが脳裏から離れない。

遅かりし!首都圏で"初"の「1.17」慰霊・追悼式。
午後5時46分、集ったわずかな200人ほどが
鎮魂の神戸の地とインターネット中継*されるなか、
1.17を型どるキャンドルを見つめ黙禱を捧げた。
((*写真①:ゆらゆら映る""は1.17の尽きせぬ想い。
3.11で生まれた言葉が遠いこの地で生きているのだ))

あれから24年。2020年の新年は四半世紀になる。
1.17に相対する下僕の負い目は行く末も消えない。

その戦友とは、東日本大震災後ほどなく、別々ながら
被災地(石卷〜女川)を互いに訪れ...16年(当時)経た
「阪神・淡路大震災」と直近の「東日本大震災」を
交叉させ語り合う段だった。が、矢先に生命を失った。

あれから8年。人世、叶わないことは少なくない。





















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